御遷宮の歴史

出雲大社-明治の御遷宮

明治の御遷宮

出雲大社の創建

出雲大社の御祭神・大国主大神様(だいこくさま)は、神代の昔、国づくりのため人々と共に国土を開拓なさいました。それとともに、農耕・漁労など山野河海の生業、医薬禁厭の法などをお授けになられ、人々の日々の暮らしのすみずみに至るまで幸せの種蒔きにお励みになりました。こうして、大国主大神様は国づくりなされた国土を御皇室の御祖先の天照大御神様に〝国譲り(国土奉還)〟なされ、目に見えない世界の幽事(かくりごと)・神事(かみごと)の主宰神、神々の世界をお治めになられる大神として、壮大な御神殿にお鎮まりになりました。
その御神殿は、広く厚い板を用いて御造営され、太く長い御柱は地下の岩盤に届くほどに地中深く突き固められ、御屋根に掲げられる千木(ちぎ)はたなびく雲を貫くほどと、その壮大な様が『古事記』(712)・『日本書紀』(720)に記されています。

また、『出雲国風土記』(733)には、「国づくりをなされた大国主大神様を〝天の下造らしし大神〟と称え、大神様のお住まいを多くの神々が集われ築かれた。それゆえに、この地域をキヅキと名付けられた」と、地名起源の由来に御神殿の御造営が語られています。また別に壮大な御神殿ゆえに、長い長い測り(天御量)をもって御造営されたことなどが記されています。
「天の下造らしし大神」と称えられました大国主大神様の御神績とお住まいの御造営につきまして、我が国の様々な古典にその様子が記されているのは出雲大社に限られたことで、極めて特殊な事柄として語り継がれています。それはすなわち、いかに数限りない人が大国主大神様をお慕いし祈りを結び、そしてその期待にお応えになられたかという広大無辺なる御神徳を称えた証です。そして、その祈りは親から子へ、子から孫へと代々に祈り継がれ、後世の御遷宮御造営にも具現されてきたのです。それゆえに、出雲大社の御造営に関わります古代の古文書記録には、「天下無双の大厦、国中第一の霊神」と称えられています。

金輪の御造営

出雲大社の伝えによりますと、古くは御社殿の高さは32丈(約96メートル)、その後、16丈(約48メートル)もあったと伝えられます。32丈については、御本殿背後の八雲山(やくもやま)の高さとほぼ同じで、これを指してることも考えられます。16丈については、平安時代の藤原摂関家の家庭教師であった源為憲(みなもと・ためのり)により書かれた『口遊(くちずさみ)』という教科書に、平安時代の巨大建造物の順位を、「雲太・和二・京三」と記されています。すなわち「雲太」とは〝出雲太郎〟の略で、出雲大社の神殿のことと言い、〝大和二郎〟の東大寺大仏殿より大きかったと明記しています。また、宮司家の千家家には、その当時の建築平面図といわれる「金輪御造営差図(かなわごぞうえいさしず)」が遺されています。あまりにも巨大であるため、3本の材木を合わせて1本の柱をつくり、それを金輪で束ねるという構造を描いた図面です。

平成12年春、拝殿北側の地下工事中に、そうした御本殿の巨大な御柱が顕現しました。それは直径約135センチの杉の巨木3本を束ねて1本の御柱とした状態で、「金輪御造営差図」に描かれた通りでした。『口遊』や「金輪御造営差図」で伝えられてきた巨大な御本殿のお姿が現実のものとなり、祖先が言い継ぎ、語り継いできた伝承の尊さ、有難さが改めて知られます。
平安時代末期に参詣した寂蓮法師は、「出雲大社に詣でみ侍りければ、天雲たなびく山のなかばまで、片そぎの見えけるなん、この世のこととも覚えざりけるに詠める。〝やはらぐる 光や空にみちぬらん 雲に分け入る千木の片そぎ〟」とその壮大な様に感歎して詠じました。
それだけ高大な御本殿であっただけに、古代の文献記録にはしばしば「社殿顛倒(しゃでんてんとう)」のことが記されています。しかし、倒れても倒れても、なお、壮大な御本殿の御造営を繰り返した歴史を示す御柱は、深く厚い祈りの証です。巨大な御柱を拝しますとき、目に見える形に現れた御柱ですが、そこには、目に見えず、形には顕れない、数限りない祖先たちの篤い祈りが込められています。

寄木(よりき)の御造営(1115年)

天仁3年(1110)7月4日のこと、出雲大社の近くの稲佐の浜辺に長さ10丈(約30メートル余)の巨大な大木約100本が漂着しました。同じ頃、因幡の国(鳥取県東部)の上宮近くの海岸にも、長さ15丈(約45メートル)、太さ1丈5尺(約4.5メートル)の巨木1本が漂着しました。因幡の国の民がこの巨木を切ろうとしますと大蛇が巻きついており、驚き逃げ帰りましたが、病にかかりました。そこで、いろいろ祈祷を行ったところ、上宮の神様の託宣が現れました。「出雲大社の御造営は、諸国の神様が受け持たれて行われる。今度は自分の番であり、すでに御用材は納めた(つまり、これが稲佐の浜辺の〝寄木〟です)。そして、この巨木1本は自分の得分で、これをもって自分が鎮まる上宮の御造営をなすべき」、というものでした。治暦3年(1067)に御遷宮御造営された正殿式の御本殿が天仁元年(1108)に転倒して以来、御仮殿にお住まいであった大国主大神様も、この御造営により伝統の正殿式の御本殿にお遷りなさいました。そこで、この御造営を「寄木の御造営」と特に伝え来ています。

この伝承は、「国日記云」として古代の文献に載録されているものです。諸国のそれぞれの産土の氏神をおまつりする人々が、それぞれ受け持って御造営に祈りを結ばれ、御造営の御用材などを納められていたことを反映していますが、ともかくこの〝寄木〟によって、永久3年(1115)の御遷宮御造営がおこなわれました。
当社の御本殿の御造営は、斉明天皇の御世、今日のように高さ8丈(約24メートル)、方6間(約10.9メートル)四面の宮制となり、後にこれ以上を「正殿式」といい、これに満たないものを「仮殿式」というようになりました。

仮殿式造営遷宮の時代

やがて時代は武家の支配する世となりました。しかし、鎌倉幕府の法律書の『貞永式目』にはその第一条に「神社を修理して御祭りを大切にすること」と規定され、この最初の武家法の趣意は以後の室町幕府法、戦国大名分国法、江戸幕府法に至るまで踏襲されました。ただ、出雲大社にあっては中世期には、御本殿の規模が縮小されての御造営御遷宮となり、「仮殿式」により行れるようになりました。しかし、それでも一般の諸社と比べますと大きく、また鎌倉時代末期の正中2年(1325)でも「社檀を高く広くして神躰を奉安いたし置きまつる故、或は大社と号し、矢倉宮と称す」と言われました。つまり、その形容から御本殿が「櫓」と形容されるように依然として高大性を顕わしていました。こうした時代の最後の御造営御遷宮は慶長14年(1609)のことですが、この時の御造営の御本殿は千木までの高さが6丈5尺4寸(約19.8メートル)でした。
なお、この時の御造営では、それまでの掘立柱建物であった様式から、礎石建物の様式に変更され、以後、この様式が踏襲されることになります。

他方、戦国時代末期の境内には、大日堂、三重塔、鐘楼なども建立されていました。中世期は神仏習合の最も盛んな時代でしたが、当時、その本拠を出雲におきつつ現在の山口県から兵庫県に至る領域を支配した尼子経久は、戦国の厳しき世の有り様にあって神仏を篤く信仰し、出雲大社の御造営に心を結びつつ仏的寄進をも行いました。現在、尼子経久が寄進した境内建物のうち、三重塔は国重要文化財として兵庫県の名草神社に、鐘楼にあった鐘は国宝として福岡県の西光寺に現存します。

寛文の御造営(1667年)

戦国の世も徳川幕府の支配する世となり終息しました。大きな社寺の御造営普請には幕府の許可が必要でした。そこでお仕えする当時の社家の人々は出雲大社の伝統、神学、教学を積極的に幕府や藩に説き続け、さらにそれまで続いた「仮殿式」の御造営から本来の姿にと交渉を重ねました。その結果、幕府は2千貫を御造営費として寄進し、高さはかつての16丈(約48メートル)の半分ではありますが、8丈(約24メートル)、また平面規模はほぼ往時に匹敵する御本殿を、凡そ400年の時を経て「正殿式」として復活させ御造営いたしました(つまり、16丈の御本殿に比すれば、床下の柱部分が短くなった形となります)。こうして寛文7年(1667)3月晦日(29日)、御遷宮がお仕えされました。
また、この御造営にあたっては、戦国時代末期の尼子氏寄進により境内にあった仏的施設を近隣の寺院に下げ渡して、全国で最も早く「神仏分離」を実現するなど、この御遷宮御造営は出雲大社史上に画期をなすものとなりました。
この御造営には逸話があります。幕府政権の確立は3代将軍徳川家光にあたりますが、なかなか世継ぎの誕生がありませんでした。そこで家光の乳母として有名な春日局は松江藩に代参を命じ、世継誕生を大国主大神様に祈願しました。すると翌年、後に4代将軍となる家綱が誕生したため、家綱は大国主大神様の〝申し子〟と言われました。こうして寛文御遷宮は、家綱の治世下にお仕えされました。

延享の御造営(1744年)

寛文に続き、延享に御遷宮御造営されたのが現在の御本殿です。寛文の御造営と同様に幕府に御造営許可を求めましたが、幕府は御造営の許可はしたものの、慢性的財政難に陥った幕府からの財政的援助はなかなか良い返事がありませんでした。そこで、出雲大社は社人による全国への御造営御浄財の募材活動(当時、これを日本勧化ーにほんかんげーと言いました)をすることの許可を幕府に求めました。厳しい人の動きの国内統制がしかれた時代でしたが、幕府は特にこれを許可しました。
社家の人々は全国各地の大名・藩主の入国許可を得ながら、都市や農村などを巡り御神徳を説き、御祈祷を奉仕し御神札を授与しつつ、御造営御浄財の募財をお仕えしました。やがて幕府も寛文の時には及びませんが出雲大社の大事ゆえにと御浄財を寄進し、全国の皆々様の篤く尊い祈りの結びとともにして、延享元年(1744)10月7日に寛文御造営を踏襲する「正殿式」の御遷宮御造営がお仕えされました。
以来、文化6年(1809)、明治14年(1881)、昭和28年(1953)、平成25年(2013)と4度の御遷宮御修造(屋根の葺き替えなどを主とする御修理)をお仕えして現在に至っています。

平成の大遷宮

 昭和28年の昭和の御遷宮から60年目の節目となる平成25年に御遷宮を執り行うべく、平成18年11月15日に「出雲大社御遷宮奉賛会」を立ち上げました。この奉賛会が中心となって奉賛活動を本格的に進め、全国の多くの皆様方より温かいお心添えお力添えをお寄せいただきました。
 平成20年4月20日に「仮殿遷座祭」をお仕えし大国主大神様に御仮殿にお遷りいただいた後の、翌平成21年より本格的な大屋根の御修造が始まりました。御本殿を覆う素屋根を建設し、9月からは大屋根の千木・勝男木・鬼板・箱棟、そして檜皮の解体が、修理方針を策定するため現状調査を行いながら作業を進めました。御修造では、檜皮葺きだけではなく傷んだ木部・金物の修理も行いましたが、延享の御造営遷宮当時のものを出来るだけ遺し、後世に伝えるという目的も持っています。今回の御修造中にも、嘗ての御修造時に取替えられた部材が、他の箇所に転用して修理されていた部材が見つかりましたが、平成の御遷宮でもこれまでと同様に永きに亘り受け継がれてきた「かたち」とそこに籠もる「こころ」は次代へと継承されました。
 そして平成23年1月より大屋根の檜皮葺きが本格的に始まり、膨大な量の檜皮が葺き職人の手によって一枚一枚丁寧に葺かれていき、12月には御本殿全体の檜皮葺き替えが完了しました。御本殿南側の千木は岩手県産の御用材をもって改められ、補修された御用材とともに新たな銅板で被覆され、12月に大屋根への据付作業を行いました。また歴世の御造営の記録や現物調査により、千木・勝男木・鬼板などの棟飾りや破風板の錺金具には荏油と松脂を主原料とする「チャン塗り」が施されていたことが明らかになりました。本来の姿に戻そうと、この度の御修造にてチャン塗りを行うこととなり、棟飾りや破風板の錺金具を黒や緑に塗り上げました。

  • 出雲大社-仮殿遷座祭 御本殿から出御

    仮殿遷座祭 御本殿から出御

  • 出雲大社-御修造のため御本殿を覆う素屋根建設

    御修造のため御本殿を覆う素屋根建設

  • 出雲大社-御本殿千木の解体作業

    御本殿千木の解体作業

 平成25年となり、いよいよ本殿遷座祭の諸準備が佳境に入る中、畏くも天皇陛下より御遷宮に対し御下賜金を賜り、宮家・旧宮家より本殿遷座祭への神饌料を賜りました。
 そしていよいよ5月10日、大国主大神様を御仮殿から御本殿へと御遷座申し上げる「本殿遷座祭」を厳粛に斎行いたしました。当日は早朝より生憎の雨模様でしたが夕刻には雨があがり、遷座祭には三笠宮彬子女王殿下、高円宮典子女王殿下(当時)のご臨席を賜り、また全国より約12,000名に及ぶ奉拝者が訪れ、境内の奉拝席は立錐の余地もないほどに埋め尽くされました。奇しくも仮殿遷座祭は満月の日に斎行されましたが、本殿遷座祭当日は新月。まさに浄闇の中、御仮殿より出御なさいました大神様が滞りなく御本殿に還御され、御本殿の御扉が閉じられたその時、八雲山方向より一陣の強い風が吹き下ろし、途端に激しい雨が降り始めました。あまりにも神秘的な出来事に奉拝者の誰しもが驚き、蘇りの御神縁に結ばれた感謝の祈りに包まれる中、約2時間30分に及ぶ本殿遷座祭をめでたく結ぶことができました。
 翌11日、天皇陛下の御幣物をお供えする本殿遷座奉幣祭をお仕えし、祭典後には東神苑に設けられた特設テントにて賑々しく記念式典・直会を催しました。また翌12日からは10日間に及ぶ奉祝祭を、6月9日までは連日様々な奉祝行事を執り行い、60年ぶりの本殿遷座祭を迎えた境内は一層の賑わいに湧き立ちました。

  • 出雲大社-御下賜金・神饌料の高札

    御下賜金・神饌料の高札

  • 出雲大社-本殿遷座祭 参進

    本殿遷座祭 参進

  • 出雲大社-宝物殿 古代御本殿の心御柱

    宝物殿 古代御本殿の心御柱

 御本殿及び瑞垣内の諸社殿に続き、その後も大神様と由縁ある神々がお鎮まりになる御社殿の御修造遷宮等事業は続き、平成28年3月をもって、全ての御社殿の御遷宮御修造をはじめ当初予定の事業は概ね完了いたしました。
 当初の事業は平成28年3月末で完了する予定でしたが、工期の延長や新規事業の必要が生じたため、平成28年4月以降は第二期事業として継続して事業を行うこととなりました。第二期事業は、工期を延長した会所の修造をはじめ、平成12年に顕現しました高大御本殿心御柱展示のための宝物殿の改修、また昭和38年の竣功以来50年以上を経て、著しい亀裂や雨漏りによりご参拝の皆様方にご不便をおかけするようになりました庁舎の改築等を行い、平成31年3月をもって全ての事業を完遂いたしました。